[083] smell smelt smelt
アントーニョが風邪をひいた。正確にはヨーロッパ全てに今、ウイルスが蔓延しているのだが、中でもアントーニョの容態が思わしくなかった。俺はベッドの中で荒い息を上げる、彼の額に手を当てる。アントーニョの部屋の中は夜で、明かりもないから暗かったのに、それの中でも分かるほど、彼の頬は赤く発熱していた。
「平気か?」
決して平気ではないだろう。分かっていたけど、訊ねた。アントーニョは俺の声にゆっくりと目を開けて、一度俺の顔を確認したあと、また目を閉じる。
「平気やないけど、大丈夫や。こんなの、どうってこと…ないで」
「でも辛かったら、言えよ。俺、今はずっと、隣にいるから」
彼の前髪を少し撫でてやる。アントーニョは赤い顔で、弱々しく…けれど嬉しそうに笑った。
辛いのは、彼の様子を見なくても分かる。けれど俺には、彼が「大丈夫」だと言い張る理由も、分かる。だって一番辛いのは、自分の民である、と、彼が理解しているから。そんなアントーニョのことを、俺は理解、しているから。なんだか遣る瀬ない。どうすることもできない自分が、もどかしい…。
不意に彼が目を開けた。何か伝えたいことがあるのだろう。俺は上体を傾けて、訊き取りやすいようにする。
「なあ、それよりもロヴィーノは、近くにおらんよな…?あいつに…これが伝染るんは、俺は嫌なんや…。ロヴィーノやなくても、嫌なんや…。なあ、…?」
アントーニョの必死の眼差しが、俺を射抜く。俺は少し、瞠目する。
「、大丈夫…安心しろ。今この部屋には誰もいないよ。誰も、入れていない。俺しかいない」
「ほんまか?ほんまに誰もおらん?」
「ああ、俺だけだ」
彼は重く息を吐いた。俺は額に置いていた手を、頭の上の方にもっていってやる。アントーニョは撫でられるのが好きだから、ちょっとでも彼の苦しいのがなくなればよかった。
アントーニョにとってロヴィーノは、弟も同然の存在だろう。ロヴィーノが幼いとき、彼らは一緒に住んでいて、アントーニョはロヴィーノのお兄さんのような存在だった。だからアントーニョは、自分にとっても辛い病気が、ロヴィーノに伝染るのを恐れる。ロヴィーノじゃなくても、アントーニョは誰かが近くにいるのを、嫌がる。ではなぜ、俺はアントーニョの隣にいられるのか。俺に病気が伝染らないことを、アントーニョが知っているからだ。
俺に、この病気は効かない。というよりも、俺は彼らが一般的にかかるような病気には、かからない。彼らと俺とでは、基盤としているものが違うからだ。体調不良にならないわけではないけれど、少なくとも…病気で臥せるアントーニョの近くにいたからといって、俺がどうこうなることはなかった。
けれど、少しだけ、俺は悲しかった…。彼の先ほどの発言は、「誰かにこれが伝染るのは嫌だ」という彼の発言は、俺を信頼しているという意味と同時に、もうひとつ、そう…俺が、明らかに、自分たちと違う、存在であると…国ではない存在だと、そう…言っているような…。
「なあ、いつもみたいにぎゅーってしてくれへん?」
「…いいよ」
俺はふたつ返事で、ベッドの隣に置いた椅子から腰を浮かす。そして、寝ている彼の上に覆い被さるようにして、彼の頭を胸に抱いた。
「あー…、…ひんやりしとって気持ちええなあ」
「そうだな」
違う、それはお前があつすぎる所為だ。目を閉じて、そう否定する。服を着ていても分かる。あつい、あつい息が、俺の胸辺りにある。俺は堪らなくなって、彼を彼の髪に埋めた。汗、のにおいがした。いつもの、太陽のような優しいかおりが、今は全くしなかった。彼のどこにも、感じられなかった。
……。
…怖い。それは…とても、怖いこと…。
「ええなあ、気持ちええなあ…。俺、今ならいっつもに抱きついとるフランシスの気持ちが分かるわぁ。ああ…ええなあ、。このままひとつに溶けてもうても、ええなあ」
「…何、言ってんだよ。風邪菌が、ついに脳ミソにまで回ったか?俺とひとつになりたい…だ、なんて、まんまフランシスだぞ?」
弱々しい声で…でもやっぱり嬉しそうに、アントーニョは「へんたいの仲間入りやあ…」と笑い、まさか寝てしまった。ちょっと驚いたけれど、こうしているのが気持ちよかったのは、嘘ではなかったからだろう。俺は起こさないようにゆっくりと彼の上から退いて、布団を掛け直してやる。全く…、今の会話といい、格好といい…事情を知らないやつが見たら、確実に誤解されるな…。そんなことを思い、俺は苦笑しながら椅子に戻り、自分も休もうと、目を、閉じた。
願わくば、彼が病が治らんことを。
(090606)