[088] steal stole stolen



「ああ…ダメだ、アーサー。それ以上、こちらに来てはいけない。危険だよ」




 絶壁の、際どい位置に立っている不安定な俺は、ゆっくりと…でも確実に、短い手足で滑らないように注意しながら近づいてくるアーサーをそういう、無責任な風に言って抑えた。踵があと一歩でも進めば下に真っ逆さま。海にどぼん。けれど背後の青空はとても綺麗で、後ろ一歩先の青い海も…同じくらい綺麗だった。そして、俺が見るアーサーの緑は、対照に泣きそうに歪んでいた。




「…じゃあも早く、こっちに戻って来てよ。危ないよ…、危ないんでしょう?早く早く、戻って来てよ…」




 俺は動かずにただ、はぐらかすかのように微笑んだ。
 …海を、眺めていたんだ。高い位置から、大海原を見下ろしていた。つまり自分自身を、見下ろしていた。特に意味なんてなかったけど、そういう気分だったから。ここに来て、たまたま来た場所が…イギリスだった。アーサーは、動かない俺に緑色をさらに歪めた。それで、一生懸命、俺に手を伸ばす。小さな手。人間の子供で言うならば、10歳前後といったところか。実際には10歳なんてレベルじゃなく、彼は国だから、見かけは子供だけれど、でもずっと長く生きている。ずっと昔から見守っていた。小さな手。兄に手を伸ばし、けれど掴んでもらえずに、宙ばかりを掻いている手。それが今は必死に、俺を求めている。けれど俺は、彼の必死さに反比例するかのように、それを…アーサーを、どこか冷めた目で見ていた。自分のことなのに、不思議とどうでもよく思えたんだ。でも、ああダメだ…ダメだよ、アーサー。君は、これ以上俺に近づいてはいけない。このままじゃあ、君の方が落っこちてしまう。深い深いところに落っこちて、きっと溺れてしまうよ。そんなのは絶対ダメだ。危ない、から…これ以上、こちらに来てはいけない。そう思う…思うけれど、俺は何故だかやっぱり、動こうとはしなかった。危ないところから、動こうとはしなかった。アーサーのことは、危ないと思えるのに、自分が危ないとは、やっぱりどうしても、思えなかった。




「ねえ、どうして?怖いよ、…。君は何をしようとしてるの?」
「さあな…どうなんだろう。俺にも、よく分からないんだ。俺はどうして、こんなところに立っているんだろうね…」



 どきどき、無性に自虐的な考えに陥ることがあった。原因なんて考えるまでもなく、呼吸をするのと同義かのように俺はただ、羨ましいと思っていた。何に?なんて、それも聞くだけ野暮で、そうやって首を突っ込むのは人間同士だけでやってくれ。俺の気持ちは俺だけの物で、だから俺ではないお前らには、どうやったって理解できない。国である、アーサー…君にだって。俺の行動は理解できやしない。そうやって今日も、ここで…こうやって破滅願望に、捕らわれる。そして、さて…では俺がここから落ちたら、いったい…どうなるのだろうか…。死ぬだろうか?いや、…死には、しないだろうな。そういう風にはできていないから。…では周りは、俺がそうしたことについて、どう思うだろうか…。例えば…今、目の前にいるアーサー・カークランド少年。彼は落ちていく俺の姿を見て、何を思うだろうか…。破滅していく俺を見て、彼は何を感じるのだろうか。泣くだろうか…、それともやっぱり、何も…起こらないのだろうか…。俺は考えて、ちょっと笑った。はは、ああ…まったくこれは、どうしようもなく下らない考えだ。もしくは、答えの出ない自問自答…。どちらにしろ、不毛なことに代わりはなかった。




「ねぇ、?やだよ、そんなこと言わないで戻って来てよ。危ないよ、危ないよ。…」




 どうしても動こうとしない俺に、ついにアーサーは泣き出してしまった。ボロリボロリと大粒の涙を流して、俺の方をじっと見つめる。彼は泣いてしまって、もうこれ以上、俺に近づくことはできなくなった。立ち尽くすことしか、できなくなった。大空をバックに、断崖絶壁に立っている俺に、もうこれ以上…彼は手を伸ばすことができなくなってしまった。噛み殺せない嗚咽と、だけれどそんな泣き方が似合わない背格好…、小さすぎる彼の背中。けれど、泣くことに慣れきってしまった背中。泣いても泣いても、それでもどうしようもできない現実があることを、彼はもう知っている。だから彼は、「子供」のように大声をあげて泣き叫んだりはしない。しなくなった、のに。でもそんな彼が今、しゃがみこんで、それこそ本当に、「子供」のように…鳴き声はあまり聞こえないけれど、けれど確かに泣いて俺を求めていた。どうにもならない現実に、抗うように泣いていた。俺に必死に手を伸ばして、切実に俺を求めて泣いていた。
 視線を、俺から外そうとしなかった。そして、そんなアーサーの姿に俺はやっと、足を動かす気になった。ただの気紛れである。




。うぁ…ぁ、ひぐっ」
「あーあ…、もう泣くな、泣くなよ。ほら、な?近くにいるだろう?怖がらせてごめんよ、アーサー。だから泣くなよ、泣かないでくれ」




 彼の元に戻った途端、彼の近くに…不安定じゃない場所に移動した途端、アーサーは俺に抱きついた。ぎゅっと俺の服を握り、放さないと言うように力を込める。俺は彼の小さな肩を抱き込み、ポンポンと優しくたたく。安心させるように、語りかける。




「アーサー、君は強くならなければ。俺のことばかり見ていてはいけない。君はもう、この世に生まれたのだから、途中で投げ出してはいけないんだ。前を向かないといけないんだ。なあ、だからもう泣き止もう」




 腕の中の熱はしゃくりあげるのにあわせて、僅かに上下を繰り返す。
 アーサー、アーサー…。心配しないで。俺は海そのものなんだから。もしもあのまま落ちて沈んでも、暗い沈黙だって俺自身だから、怖くはないんだよ。最初は自分以外、何もなかったんだ。でも、君にこうして出逢えたから。だから心配しないで、君が恐れていることは、何も起こらない。不安にならなくても、大丈夫だから。海は俺だよ、アーサー。いつも君の隣にいる。たったひとりぼっちは、もう怖くないのだから…。
 言いながら、俺はアーサーの小さな身体をまた力を込めて抱き締める。生まれたばかりの、小さなアーサー。他に行くところもなくて、いつも俺の元に来ていたアーサー。俺はその度に、いろいろな話を聞いた。君のいろいろな思いを受け止めた。例えば、君の兄さんたちの話だとか。例えば、海の向こうの…友達の話だとか。別にそれを、苦痛に感じたことはなかったけど。けれど、ではいったい、…俺の思いは誰に伝えれば良かったのだろうか…。海が抱いた気持ちは、いったい誰が抱き止めてくれたというのだろうか…。
 俺はぎゅっと、また強くアーサーを抱き締めた。彼の悲しみを、全てを奪うつもりで抱き止めた。そうやってまた、自分の気持ちに蓋をするように、奪った場所に代わりに優しさを詰め込んだ。






(091117)