[098] weep wept wept
人を、好きになりすぎてはいけない。生き物に、情を与えすぎてはいけない。なぜならそれは、遅かれ早かれ、俺たちにとって毒となるから。俺たちは死ねない生き物で、立場はいつも、見送る側。そんな俺たちに、もしも終わりがあるとするならば、それは消滅。あるいは破滅。誰に知られるでもなく、初めからなかったかのように。最期を看取られるなんて奇跡に近く、ただ俺たちは流れいく生死を、ただ見つめ続けるだけ。それしか、できなくて…それしか、許さてはいない。
海が望める小高い丘に腰を下ろして、俺は上を見ていた。映る空は憎いほどに青かった。快晴である。今日の海もとても穏やかだ。頬を撫でる海風は、気持ちいいくらいに爽やかで、けれど逆に自分の胸中は、びっくりするぐらい淀んでいるように思えた。そうして俺は、いつの間にか隣に来ていた人物に声をかける。
「人を、好きになったんだな…ギルベルト」
ギルベルト・バイルシュミット、プロイセン。戦うために生まれた国。俺がかけた今の言葉は憶測。これといった確証はなかったが、けれど当たってしまったようで、彼は不自然な間をおいて否定した。
「…なってねーよ。んな、愚かなことは…していない」
「じゃあ、どうして…俺のところに来たんだ?」
ドサリと隣に胡坐をかいた、色素の薄い髪を見ると彼の瞳は、真っ直ぐに海を見ているようだった。その視線は力強かったけれど、どこか…俺にはその姿が虚勢のようにも映った。ギルベルトがここに来た理由は、俺はなんとなく分かっていた。人の一生は短い。そろそろだったのだろう。ギルベルトの大王。親父と言われ、慕われている彼の人生。
ギルベルトは強い男である。強い男だった。とても強い国だった。もちろん、それは今このときも健在であるけれど、隣にいる彼はどことなく人間の表情をしていた。国、ではなく「ギルベルト・バイルシュミット」の顔。昔、俺に会いに来ていた彼は、とても誇らしそうに俺を見ていた気がする。今なら世界中、どこだって自分の物にできると疑わない、自信に溢れた表情だった。けれど今の顔は、違った。あのときの俺を見ていた「プロイセン」では、今はなかった。いつも目を合わせて会話するのに、しかしそれをギルベルトは今はせず、ずっと彼方を向いたまま、すっかり抜け落ちてしまった表情で、機械的に呼吸をしていて…そんな人間的な表情をしているのに、どうして、それでどうしてそんなことが言えるのか?どうして「好きになってない」なんて言えるのか?
「知るかよ、…ただの気紛れだ。俺がどこにいたって、にはカンケーないだろう」
「あるよ、もちろん。俺はこの世界で、お前らがいちばん好きなんだ。だから寂しがってたり、悲しんだりされるのは嫌なんだ。心配なんだよ?」
「そういうの、うぜぇ」
「ウザくて結構。相変わらずバッサリいくなぁ。でもなあギルベルト、俺はいつも思ってるよ。どうして君らは、そんなにも巻き込まれて、流されて、左右されて、それでどうして自分の意思を持てないんだろうなってさ…。なあ、どうしてそんなにも、感情があるのに、殺しながら生きなくちゃいけないんだろうなって、…いつもいつも思ってるんだ…」
言いながら、俺は彼の肩に頭を傾けた。身長的に、ギルベルトの方が高いから必然、彼の肩が俺の後頭部に当たる。
…彼は俺の呟きを訊き、さて、いったい今、彼は何を頭に思い描いているのか。表情をチラリ窺えば泣いているような、笑っているような、とても複雑な表情をしていた。俺は視線をすぐに前に戻す。もう夕暮れに近い。西の空が橙色だ。
「な、なんだよ!くっついてくんな…!」
「五月蝿い…。はあ…、素直じゃないよな、ギルも。まったく、ヨーロッパの連中はどいつもこいつも意地張る奴らばかりで、やんなるな。アーサーの野郎も、バカみたいに強がる。お前らの自尊心とか、そういうもんが、俺の前ではちっぽけなものでしかないって忘れてんだ、あいつも…もちろんギルベルト、お前も」
俺に強がって何になるよ。他人に弱味を見せられないお前らみたいなバカが、俺みたいな存在以外の、誰に頼れるって言うんだよ。
「俺はやっぱり嫌いだ、お前らのそういう態度。だって意味がない。誰にだって、幸せになる権利はあるんだ。お前らだけが無理をする意味も必要も、どこにもねーよ」
泣きたいときに泣かないで、じゃあお前はいったいいつ泣く気だ?せっかく人の姿をしていて、人間は泣ける生き物なのに、使わないのは勿体無いだろ?なあ、だから泣いてもいいんだ…。あの人も気にしてないから。あの人もきっと、今ギルベルトが我慢してる方が、ずっと心配するよ?ギルのこと、よく分かってる人だったからさ。なあ?…今日、今泣いたって、誰も笑ったりしないよ。
俺は、ギルベルトの投げ出されていた手に、自分の手を絡めた。彼の手は騎士の手に相応しく、至るところにたこがあって、固くなっていた。触って、撫でて…固くて、固くて…これは何をしてきた手だろうか…。人を切った?守った?生殺与奪。どちらにしても、生きてきた証に他ならない。彼の、ギルベルト・バイルシュミットの生きた証。
「い、意地なんて張ってねーよ!!それに手!やめろ!ベタベタ、ベタベタ…気持ちわりーんだよ!!」
「……」
「!何してんだよ!だから手ぇ触んな!」
ギルベルトはグイグイ俺を肘で押して、無理矢理に離れようとした。ギルベルトにとってそれは当然の行為ながらも、俺は無性にカチンと来た。ああ、そう、ふーん。そういうことすんだ…。お前がその気なら、俺にだって考えがあんだよ。
俺はガバリといきなり膝で立ち、上からギルベルトの頭を抱えこんだ。ぐあ、と腕の中から非難の声が上がるが、それでも放してやる気は毛頭ない。
「てめっ…」
「五月蝿い、黙れ。俺は今怒ってるんだ」
俺、お前が羨ましいよ。俺にも、お前のことをあんなに思ってくれるような人が欲しかったな…。思わず本音が零れて、ギルベルトははっとしたように抵抗を止めてしまった。しまった違う…、こんなことが言いたかったワケじゃなかった…。咄嗟のことに誤魔化そうと思ったが、もう無理みたいだった。
「、お前…いつもンなこと」
「っ、あーあ…。ギルベルトの馬鹿の所為で俺、何言いたいんだか分かんなくなってきた。口滑ったし…。謝れ」
「…はあ?意味、分かんねーし。それ、絶対俺の所為じゃねぇよ。あと…」
「あと?…なんだよ、言えって。変なところで止めんな、気になるだろ。ん?何だって?ほら、言ってみ?俺が何でも訊いてやる」
彼は、らしくなく、さっきまで押し退けようとした手を、逆に俺に縋るようにさせて、注意深く表情を隠しながらこう言った。
「何様だよ…、いつも兄貴面してるくせに、そうやって今みたいにいきなり…、弱音とか…なんだよ。何なんだよ…っ。誰ものこと、思ってない…みたいに、言うな…。あ、えっと、その…俺も、お、お前のこと…思ってて、るし。他のやつらだって、思ってるはずだから。だから、…そういうアホな勘違い、改めろ。そういうの…さ、寂しいだろ…」
彼は今、俺の腕の中だ。だからどんな表情をして、どんな思いを抱きながら、彼が「俺を思う」なんて思いきった台詞が言えたのか、判断することはできない。けれど、予想するまでもなく、絶対に今、こいつの顔は酷い有様で、きっと人に見せられたものじゃない。そりゃあ、もう…間違いなく。なんてったってまだまだこいつはガキだから。他人からの愛情に慣れていなくて、お子様で、自分で言っておいて、でも照れないはずがなかった。そういう奴なのだ、ギルベルト・バイルシュミットは。不器用で、他人に頼るということができない不憫な奴なのだ。でも、だからこそ…みんなに思われているのだろうな。あの人にも、…だからあの人にもあそこまで…。
俺は自分の口角が、どうしようもなく弛むのを感じた。
「俺が、いつもいつも何を思って、何を心配しているのか、分かったか?」
「ああ、分かった。痛い、くらいに分かった。だからいい加減放せ。うぜぇ。ぎゅってすんな」
「真っ赤な顔して何言ってんだよ…。でも、ギルのそういうところ、俺もうざくて好きだよ」
それでちょっとだけ泣いて、ちょっとだけ嬉しかった。慰めようとして、でも何だか慰められて、さすがに気持ち悪いな、俺たちって言って、その日俺とギルベルトは、涙混じりに声を上げて笑いあった。
(100204)