[099] win won won
ふんわりと、彼の体をまるで閉じ込めるように、俺は菊を腕に抱き込んだ。玄関先で、インターホンを押して出てきたところを間髪を容れずに。腕の中で彼は少し、驚いたように息を飲んで肩を揺らしたけれど、特にそれ以上の反応は返さなかった。
「さん…?」
「……」
かけられた言葉は疑問のそれだったが、しかし菊に戸惑う素振りはなかった。なんとなく彼はこうなることを予想していたのかもしれない。菊、と言わず日本人は総じてスキンシップが得意でないのに、急に抱き着かれて、それでも無反応な理由なんて、それくらいしか浮かばなかった。
彼の言葉に、俺は何も応えない。無言のまま数分が経った気がしたけれど、時間の感覚がない。
「こんな場所ではなんですから、中へご案内しましょう」
「……うん」
そっと腕を開く。俺の方が僅かに身長が高いので、見上げてきた菊の表情は、いきなり抱擁に、けれど思った通り、いつもの冷静さを孕んでいた。
俺は居間に通された。入ってすぐに、菊が今まで見ていたであろうテレビの電源が落とされる。こたつの上にはみかんの皮が置き去りにされており、今更ながら急な来訪にちょっとだけ悪い気がした。
「悪い、休んでた?」
「いえ、お気になさらず。さあ入って暖まっていてください」
「…うん」
こたつに入るとじんわりと冷え切った足先から暖まっていくようだった。菊はこたつの上をさっと片付けると、俺を居間に置いてどこかに行ってしまった。またいつものように、お茶の用意をしに行ったのかもしれない。そうして待っていると、どこからかぽちくんがやってきて我が物顔で俺の両腕の隙間に入ってきた。いきもののあたたかさがした。
「どうぞ」
「ありがとう」
暫くして戻ってきた菊の手にはやっぱり盆が握られており、俺の前にごとりと湯飲みが置かれた。彼は同様にお茶請けの煎餅の皿を、先に置かれていたみかんの隣に並べ、俺の左手側に腰を下ろした。日本茶独特の豊かな香りが部屋に漂う。俺はやっとまともに口を開いた。
「テレビ、見てたんじゃないのか?」
「作戦実行中のため心配要りませんよ」
「作戦…」
時事ネタだろうか。菊は意味ありげに、口元を隠しながらニヤリと目を歪めた。実に楽しそうな笑みであった。俺は、彼の言うそれがいったんどんな、どういう作戦なのか、どこかで聞いたことがあるような気もしたけど、何故だかうまく思い出せなかった。
テレビの点いていない部屋は静けさに満ちていて、野鳥の囀ずりが長閑さを連れてきていた。
しばらくは、俺も菊も、何も言わなかった。俺はそれが少しだけ居づらくて、それに少しだけ安心した。ごとんと頭をこたつに倒す。中とは違う天盤の冷たさに、左頬の熱が奪われていくのを感じた。自然と息が漏れた。どうやら張りつめていたらしい。こたつに伏せた俺の頭を、菊がそうするのが当たり前と言わんばかりに撫でてきた。頭皮を擽るようにかりかりと掻いたと思えば、髪を流すように梳く。
「それ、気持ちいい」
「では今のさんは大きなネコといったところでしょうか」
「それもいいかも」
「うちはぽちくんでいっぱいいっぱいですよ?」
「言い出しっぺの法則だよ、菊」
「おや?住むんですか?」
このうちに?一緒に?
菊と反対側に頭を倒している所為で彼の表情は窺えなかったけれど、その声音は笑っているようだった。きっと彼は俺が本気で言っているのではないと分かっているのだろう。
「菊」
「はい」
「…菊?」
「なんでしょうか」
訝る彼に、俺はけれども随分と間をあけて、何でもないと返した。自分でも、どうして今日はこうも菊に無意味なことをするのだろうか、と不思議に思った。急に視界がぽちくんでいっぱいになった。よく躾られているぽちくんにしては珍しく、前足がこたつに乗っている。どうしたのだろう。不思議に思ってぽちくんの耳元を撫でれば、ぽちくんがぺろぺろと俺の顔を舐め始めた。何か俺の頬についているのか?もしかして口元を食べ物で汚したままだったのだろうか。食べ方は、それほど汚なくないと自負していたが、そうでもなければぽちくんの行動が分からなかったので、少々不安になった。まさか菊の家に来るまでずっと汚れたままだった…?それはかなり恥ずかしい。
悶々とする俺に、けれど菊は相変わらず動かす手を止めない。
「ふふ、さん、今日はいつにも増して鬱陶しいですね」
「…そんな日もあるさ」
「泣くなら泣いてもいいですけど、ぽちくんは返してくださいね」
「…けち」
「ぽちくんは私の大切な家族ですので、当然です。ぽちくん、涙なんてしょっぱいだけですから、後で美味しい物を食べて口直ししましょうね」
「おいおい、まあ、事実だけど…ちょっとヒドくない?」
なあぽちくん?同意を得ようとしたが、当のぽちくんは元気にわん!と一鳴きし、やはりというべきか、俺の腕から抜け出て菊の方に行ってしまった。
舐められていたのは俺の涙だったのか…。驚いた、全く自覚がなかった。
「…ぽ、ぽちくんまで…。なんか今日の菊たちは意地悪だ」
「残念ながら今、あなたに回すほどの体力がないんです。恐れ入りますすみません」
なんと心ない謝罪だろうか。思ったけれど俺は意味のない、あーだとかうーだとか呻いた。
こんな会話をしに来たんじゃなかったのに。どうしてか菊の前では欧州のやつらに見せられている余裕が出せない。俺の方が年上なのに…。
「さん、あなたが何を思っていらっしゃっるのか存じませんが、間違いなくそれは杞憂ですよ。あなたの思っていることは起きません。ええ、これっぽっちも。私の底力を見せてやるんです。まだまだ若い者には頼りませんよ!」
「…なんか今日、菊はスッゴい元気だね」
「当たり前です!こんなところで潰れる私じゃないですよ!!それに皆さん、とても優しいんです…。だから平気ですよ。今、私に元気がなくて誰が得をするのでしょうか?」
日本中のヒーローが応援してくださっているんです。私もまだまだ負けてられません!菊から溢れる歳末みたいなテンションの高さに、さすがの俺も苦笑しか出せなかった。はは、本田 菊はすっげーや。ぽちくんの温もりが消えた腕の中はなんだか寂しく、置いてきぼりをくらった気分である。
「いつもの菊じゃないみたいだ。オタク国家はネクラ国家じゃなかったんだな」
「失礼なことを言わないでください。思わずしばいちゃうでしょう?それにオタクはみんな元気ですよ。彼らに不景気は無縁ですから。そうださん、今度AKBのコンサートに一緒に行きましょう。きっと元気が出ますよ」
「や、遠慮しときます」
俺はこの家の今、目の前にあるテレビで見せられたライブDVDのことを思い出した。確かにあれは元気が出るかもしれないが、その前に俺の身が持ちそうにない。そして俺は今度こそ大きなため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げますよ」
「はいはい、そーですね」
確かに、俺の考えは杞憂だったようだ。
(140225)