ゆっくりと瞼をあげると、やはり目の前はぼんやりと霞んでいた。まあ、しょうがない。自業自得だ。電車の中で寝てしまった自分が悪いのだ。あのシートは座るのに不自由はないが、寝るのには向いていない。
 視界がはっきり定まらなくて、数度瞬きをし、ようやく判別できるくらいに回復する。瞬間、飛び込んできた景色に、まだ寝惚けているのかと思って、俺は必然的に、目を擦った。あっと…、どうしてこんなことになったんだっけか…?そしてもう一度改めて、目を擦る。それはあまりにも、ありえなかったから。
  、今人生最大の[意味が解らない]
 視界に写ったのは見知らぬ天井だった。少々古風だけど一般的な造りのそれは、もしかしたら前に見たことがあるかもしれないけれど、だとしても、自分に今、こんなものが見えるのはとてもとてもおかしいことだった。だって自分は、電車の中で居眠りをしていただけなのだから。




「お、意識が戻ったんだな。」
「あ、れ?俺…。」




 不意に思考が中断される。声のした方向に目を向ければ、右目にモノクルをかけた着流しの男が、安心したように笑顔を向けていた。
 何だ、その格好…。いくらガチャ目だからってモノクルはないだろう。一瞬、本気で思考が止まってしまった俺を置いて、モノクルの男は話しだした。




「念のため、まだもう少し寝てろよ。着ていた服はこっちで洗わせてもらった。今着てるのは俺のな。」




 言われて掛け布団を捲って見てみれば、男と同じような着流しだった。着流しなんて、旅館に行ったときくらいしか着ないから、なんだか不思議な気分だ。いや、あれは浴衣だったっけか?どっっちにしたって同じことだったけれど、回転数の格段に落ちた俺の頭は、その辺を上手く処理してくれなくて、かなり焦った。
 いったいこの男は、何をしている?俺はいったい、どうなってる…?




「あんた、名前は?」
…。」
か。俺のことは化野って呼んでくれ。それでは、どうしてここにいるのか解るか?」
「いいえ、まったく。…検討も、つきません。」




 聞かれたことに、機械のように答える。まるで、さっぱり解らなかった。電車の中で寝ただけで、こんなことになるか?普通…。何か、悪い夢でも見ているような気分だったし、実際、そうであって欲しかった。けれど目の前の景色は、夢にしてはとても鮮明すぎて、空っぽな心に、不安だけがふやふや漂う。




「山ん中でぶっ倒れていたらしい。何が遭ったのかは…、あーコラ!無理に起きようとするな!」
「で、でも俺…っ。」




 反射的に跳ね起きようとしたけれど、上がりかけた肩は男に押さえつけられて、浮き上がった頭も枕に戻された。
 倒れてた?…冗談じゃない、頼むから寝言は寝てからにしてもらいたい。昨日はサークルの連中と騒いでいただけなんだ…。電車の中にいた記憶は残っている。そこは間違いない。いくら二日酔いだからって、そこまで記憶が錯乱することはないはずだ。でも、肝心なところの記憶がないのも確かだった。
 ここに至るまでの記憶がない。さっぱり、ない。どうしてこんな普通の家で横になっているのか、解らない。
 自分がどうなっているのかワケが解らなくて、暗闇の中にいるようで、どうにも気分が悪かった。俺は掛けられていた布団をぎゅっと握りしめる。
 男は、俺が大人しくなったのを確認すると、立ち上がった。




「とにかく、今お前をここまで運んで来た奴を呼んでくるから、それまでちゃんと寝てろよ。」




 そして部屋には俺だけ残される。静かになった部屋の中に、俺は忙しなく目を走らせた。
 障子、襖、畳に布団、それにこの枕…。どう考えてもタイプが古い。デザインでそうなってると考えられなくもないが、この統一性はいかがなものだろう。レトロマニアにも程がある。それに、あまりにも静かすぎる。機械特有のあの稼働音が、まったく聞こえない。加え、この部屋にはおよそ日常生活を送るための家具がまったくなかった。寝るための部屋なのかもしれないが、だとしてもタンスや何かくらいはあってもおかしくはないはずなのに…。
 しばらくして、人の足音が聞こえてきて、襖が開けられた。…まず目に入ったのは、男のズボンの裾だった。さっきの男は着流しだったから、てっきり同じようなスタイルだろうと思っていたので、あ、何だフツーじゃん。と思ったのに、次に目が捉えたものに度肝を抜かれた。




「山で倒れてたから、まさかとは思ったが、案外元気そうだな。」
「な、なあ…。あの、木…。」




 ズボンの次に目に入ったのは、庭だった。人の顔を見る前に、その向こうに目が行ってしまったのは、少々おかしな話だったが、目に入ってしまったんだからしょうがない。でも、こればっかりはどう考えても推測すら立てられない。俺は男の制止の声も訊かずに縁側に飛び出した。案の定、あとについていた着流しに何か言われたが、今気にしている余裕はなかった。
 外に出た瞬間、冷たい風が身を切り裂いた。両の足がついている廊下も、ひんやりと冷たい。




「…?あの木が、どうかしたのか?」
「葉が、ない…。」




 俺の視線を追って庭を見ていた男が「はあ?」と言った。いや、この状態で「はあ?」って言えるお前に俺は「はあ?」って言いたい。今、秋のはずじゃないのか?まだ夏の暑さが残っているはずだし…、枯れるにしては早すぎるだろう…。
 もしかして、今は冬なのか…?あんなに残暑がウザいとか言っていたのに、もうすっかり冬なのか…?
 俺には、もしかして、3ヶ月分の記憶が、ない…?




「お前、何言ってんだ?冬が近いんだ。当然だろ。」




 着流しがバカにしきった声音でそう言ったけれど、俺は頭が真っ白になってしまって、いつもの俺だったら出ていた悪態も、口の中で迷子になって、体からも力が抜けてしまい、その場に崩れ落ちてしまった。
 言われてみれば空が高い。それに明らかに都会の空じゃない。でも、田舎だってこれ程澄んでいただろうか…。
 まさか。嘘だろ、おい…。それじゃあ、それじゃあ俺は、記憶を失くしてしまったって、いうのか…?
 …そんなの、冗談にも程がある…。




「おい、どうした?顔色悪いぞ。」




 目が覚めたら、山の中で倒れていたと言われ、建物の造りはどう考えても田舎風で、極めつけは今が冬だということで…。そんなの、夢か何かとしか考えられないじゃないか…。
 頭がガンガンした。異常事態だ。許容範囲オーバーで、何も考えられない。
 寒い…。冬が近いから当然なのか?足が冷える。そういえば、外に出られるような格好ではなかった。寒い、寒い。風が凍みる。それじゃあ、…これは、夢でも、ない。




「おい、」




 呼ばれて見上げたら、さっきの着流しの男がしゃがみこんで俺の様子を窺っていた。
 ずいぶん心配そうな顔をしている。今の俺の顔色は、そんなに悪いものなんだろうか…。




「ここ、どこ。」
「…、海辺の小さな村だ。これといったものはないが漁が盛んだ。お前、さっきまでの勢いはどうした?ギンコに何か訊きたいことがあるんじゃないのか?それとも休むか…?」




 そういえばと、ズボンの男に視線を移すと、彼は立ったままで静かに俺を見下ろしていた。
 いまさら気づいたけれど、彼の髪はいっそ清々しいくらいの白色だった…。白染めをしたとしても、きっとここまでにはならないだろう。それに、きれいな緑の目をしている。左目は前髪の所為で分からないが、右目の緑はカラコンでも入れているのだろうか…。
 俺は一度、視線を着流しに戻し、緩く首を振った。なんだか疲れたけれど、訊かなくてはならないことがある。部屋に戻って、俺は元いた布団の中に座らされた。なんだか、ほんとに病人になった気分だった。
 確認するようにギンコと呼べば、彼は「ああ」と頷いた。




「俺が、倒れてたのって、どの辺り?」
「…ここから、そう遠くない。半日あれば往復できる。」
「そう、か …。俺の近くに荷物とかは?」
「なかった。だから初め、死にたいのかと思った。それに蟲も、ついてたからな。」
「むし…?」




 虫がついていると、何か都合が悪くなることでもあるのだろうか。よく分からない。もう、頭が痛かった。




「安心しろ、もう払ってある。蟲というのは、通常人には見えないものの類いだ。あんま気にすんな。」
「幽霊、みたいなもの…?」
「まあ、そんなものだな。厳密に言えば、違うかもしれんが。」




 その後、着流しにもう寝てろ、と半ば無理矢理寝かされて、2人は出て行った。少ししたら様子を見に来るから、と言われたけれど、それに返事する気力も、俺にはもうなかった。自分が、相当まずい状態だっって解っていたけれど、こんなの…どうしようもできない。…これは、本当に現実なんだろうか…。もしかしたら、俺はまだ電車に乗っていなくて、家で寝てるんじゃないだろうか…。それで、目が覚めたら、家のソファでグータラ寝てて、その日は二日酔いに悩まされたり…。
 いや、…電車に乗ったのは、確かだ。やっぱりそれは、どうやっても覆せない。でも、なんだかこれは、夢じゃない気も、したし、いや、…俺が、そう…思いたい、のか…?
 とても静かだった。鳥の鳴き声がやけによく聞こえる。それとほんの少し、潮騒の音も…。まさか、本当に…こんなことはありえるのだろうか…。電車で居眠りしただけで、海の近くにいて、季節が変わっているなんて…。本当にげんじつなんだろうか…。もしもそうでなければ、何か不思議な力によって、別世界に飛ばされていたとか…。案外、そっちの方が有力かもしれない…。むしがどうとか、言っていたし…。まあでも、だとしても、非現実的としか、思えないよな…。これが、本当に長い夢か何かなら、いいのにな…。
 現実でなければ、何でもいいと、もうほとんどやけくそなことを考えて、そして俺は泥沼に沈むように、眠りに落ちた。






(090116)